根性

 三分の一回復。




 ひそかに毎日ブログを更新してやろうと思ってたんですが、いきなりやられました。 体調の悪化が原因だから仕方が無いのですが。

 とりあえず新聞見てて思うのですが、ウチの新聞は全国規模のニュース量が少なすぎるんですよね。 面白い事件についてとかほとんど載ってない。 なんだかなぁ。
 そういうわけでネットでのニュース探しをする時もしばしば。 面白いニュースを読んで、なぜかネタにする前に忘れるのが漏れクオリティ。 うへえぇ。 自分の記憶力ながら嫌です。


 
 最近面白いネット小説に出会えません。 まぁ探してないから当たり前なんですがね。 それでも面白いものが読みたいと思うのが人間。 人間語るのも烏滸がましいですが、誰でもラクしてトクしたいもんじゃないでしょうか。
 ネット小説が面白いのは一般小説でできないような奇抜な設定が使えるからだ、とか言ってた人がいたような気がしますが、そーいうわけでもないようで。 奇抜な設定じゃなくても面白いものは面白いですし。
 つまりあれだ。 面白いかどうかは書き手のセンスと読み手のセンスに依るのではないかと。
 
 某SS業界とか見ていて思うのですが、最近は読み手の技量も問われる時代なんだな、と。
 なんか中学生とか言いそうですが、「国語なんて正味どうでもいい」とかいう台詞がありそうで実際あると思うんです。
 けど読み手の技量を考えた時国語の授業は実は必要なんじゃないかと。 むしろ『国語』ってのは最低ラインっぽい気がします。 漢字の読み方然り、文法然り、表現法然り。
 まともな『国語』の授業を受けていたら、明らかにマズーな感じの文章かどうかぐらい判別できると思います。 文体とかそれ以前の問題として、です。

 ですが、最近の『国語』*1が現在の作品の傾向に合っていない、と思うのですよ。 今のティーンが読む本はエンターテイメント的な小説が多いんじゃないかと思ってます。 いや実際知らんけどね。
 こういうジュネレーションギャップが現実と虚構の差を理解する能力の欠落を生み出すのではないかと。
 あ、いやでも国語が悪いとかじゃなくてあれですよ。 ただ単に、現代の作風とズレが生じていると思うだけです。 ようやく自分も川端とかの渋さが分かってきたような気がします。 いや、気だけだよ? 夏目漱石の「こころ」とかもそうだなぁ。
 でも実際ですね、「こころ」という作品を読んだときの感動と、「君が望む永遠」をプレイしたときの感動がティーンにとって同等のものと言えるかは疑問でしょう。 ていうか待てあれは十八未満はダメだからティーンって表現はダメじゃん。 でもめげない。 まぁ情報伝達手段として差はありますが、その分差し引いて、さらにベクトルの違いという差を差し引いて、それでもなお差があると思います。
 漏れは「こころ」を読んでうへぇと思った。 思っただけ。 君が望む永遠のアニメを三話まで見て、後から評判を聞いて思った。 うっへぇぇと。 思っただけ。
 実際これぐらい差があるんだからさね。 あれ。 何て言おうとしてたのか……ああ、そうそう。 与える影響が君望の方がデカイんじゃないかと。 困ったことにそれは『国語』じゃどうにもならんのですが。 そもそも分野が違うんだから、ていうのはアレです。 ただ単にドツボの三角関係をテーマにしたライトノベルが思いつかなかったんですよ。 それにしたって『国語』で勉強した「こころ」と比較して受ける影響が違うと思います。
 
 そもそも現代文はエンターテイメントと全く別物だ、という意見もありますが。 つぅかそれが結論にならざるを得ないような。 似て非なるものですよな。

 あれ。 漏れはなんだ。 『国語』能力の不足からくる現実と虚構の差を理解する能力の欠落について考察しようと思ってたんですが。
 まぁ、そのベクトルに直してみますとね。
 『国語』ができないんじゃなくて、『国語』で学んだことが応用できないことが『国語』能力の不足なのではないかと。 たいてい皆さん国語のテストは点数を取るかと思います。 中学とか小学校の範囲でですよ。 それでもあれだ。 点数が取れても、文章の良し悪しが分からない。 その文章の意図が分からない。 単語が分からない。 抽象的な表現が想像できないなど、そういったことがあると思います。 これはあくまで難しい話を観測する対象とした場合です。 あ、でも実際ね。 小難しいお話とかって分かりません。 なんか僕が中学の時に読んだ難しい話って大抵が、語り手が無理して難しい単語を使って独りよがりな抽象表現を使ってるようなもんが多かったです。 だからスルーしてました。 本当に分かってほしいことなら分かりやすく書くと思ったから。
 そういうのが何を生み出すかというと。 現実と虚構の差を理解する能力の欠落を生み出すのです…………んなわけねぇじゃん。 論理飛びすぎ。 うへぇ。 まだこの問題までいけないのかよ。 国語からじゃ結べないのか? いや、いけるはずだ。 がんがる。

 前述で定義した国語の能力で考えた場合、それで何が起きるか。 国語で点が取れても、話の良し悪しが分からない?という点でアプローチしたいと思います。
 ちょっと話が変わりますが、『電車男』 結構な評判のようで。 マンガ化とかについてdebedebe氏がいつか言いましたが、メディアとしてのレベルの低下、という表現がすげぇなんかウチの中では衝撃を受けました。 これについての考察は後日。
 で、その電車男ですが。
 ……あれー。 電車男の現実性について国語の能力からアプローチしようとして失敗しますたorz ここには書いてませんが、かなり書き殴ったとだけ言っておきます。


 まぁようはね。 国語のテストで点が取れても、それを応用できなきゃしょーもない。 人の気持ちを汲み取るのも、テーマを読み取るのも、表現を豊かにするのもね。 国崎往人が言ったように、勉強した能力ってのは知らないうちに役に立ってるもんなんですよ。
 そういった能力の不足による対人関係の悪化とか。 そういうのが現実と虚構が理解できないってのを生み出すんじゃねーのかなぁって。 論理性を無視して話す主張は痛々しいな……マジで。

 そもそも現実の定義も曖昧に進めておりますが。 それは今度ね。

 もういいよ。 もうこの論理は止めだ。 消すのはすげぇ悔しいので消さない。



 僕にも、U-1SSが面白い時期があった*2。 それは明らかに僕の国語能力の不足を示している。 点が取れないことじゃなくて、学んだことが応用されていないこと。 当時はライトノベルも読んでなかったから比較対象がなかった。 国語で見るような文章はあまり興味がなかったし。 つまり、U-1の強さと凄さを正確に伝えてくれるものが面白かった……んじゃないかなぁ。 今考えたらぴっぱらりーですな。 それが面白い、と思ったら稚拙な文章でも受け入れてしまう。 これが、文章の良し悪しが分からないという現象の始まり。
 いやこれも面白さの一つかなぁとは思うけどですね。 カッコイイ文章で描かれるカッコイイアクションが面白いと思う段階までくると、疑問を持つわけですよ。 おいおいなんだこのなってない文章は、と。 僕が言いたかった現実と虚構のギャップについてはこの辺りかもしれません。
 そしてようやく学んだ国語の能力が応用できる範囲までくると。
 U-1SSにおけるテーマ。 キャラの心情。 展開。 文章、その他その他があまりにも空虚なものであると分かるのです。 文章の良し悪しが分かる。 ようやくその域の一歩手前まで来たわけです。

 某SS業界では、それがなんともなってない。 それは単に比較対象がないからとかもありますが、自分が学んだことを思い出してほしいと思う所存でもあります。




 
 つぅか自分はまだ文章力で優劣を付けれる段階まで来てないような気がして。
・読みやすさ。
・キャラの心情を意図したとおりに思わせる描写力。
・情景を想像できる。
・スピード感(緩急)。
・語彙力。
 とかそんな感じでつけてます。 あと、ノリもあるか。 どうも自分は韻を踏んだ文章とか体言止め連打が好きなので一般的な評価と違う部分があるようです。 これはもう読まなきゃどうにもならん。 と思いつつ読みます。



 今日の一言
「うっひゃ」

*1:この場合は現代文

*2:構成がまだしっかりしてるものだけど